お笑いをライヴで!!

10- 死闘の果てに Part-6

握力25kgのタツオが、とんでもなく力強くボールを握った。「ギュッ、ギュッ!」と勝利を掴むが如く、タツオはケンタッキーのアルバイトで稼いだバイト代で購入したマイボールを見つめた。マイボールの名前は、ミホノブルボン。JRAの3歳二冠馬でサイボーグとの異名をとった逃げ馬である。タツオは幼少期に何気につけたTVで、ミホノブルボンが、朝日杯3歳ステークスで、外から追い込んできた2着馬を鼻差で逃げ切ったシーンを観て、感銘を受け、それ以来ミホノブルボンの虜になっていった。ミホノブルボンが菊花賞で、2着に敗れた際は、号泣し、目が腫れ過ぎて、病院に行ったほどである。
タツオは、ボールを投げる際は、ミホノブルボンのように、唯我独尊の走りで、レーンを転がってほしいという願いをいつもしている。タツオの相棒は、漆黒の顔をしており、タツオは彼のことが大好きだ!
タツオは、この相棒を手に入れるまでの長い道のりを思い出した。ケンタッキーでの過酷な日々。パワハラのお客さん。やる気のないフリーターたち。でも、タツオは、この相棒を手に入れるために、来る日も来る日もケンタッキーに通い、ついにはケンタッキーの接客大会で、日本チャンピオンになってしまったのである。その時の賞金で、この相棒を手に入れたのである。
全日本おもてなし選手権が、千葉の幕張メッセで行われ、全国からおもてなしには自信ありの強者たちが約100名集められ、約1週間に渡って審査されるのである。もちろん、審査委員長は元祖おもてなしの森野クリスタル。常に、クリスタルさんに見られているという緊張感から失神者続出し、選手権継続に黄色信号が灯ったほどである。あの、緊張感たるや、心臓を抉られるような感覚であった。クリスタルさんの、ニホンオオカミ(絶滅種)のような眼差し、時折見せるデビット夫人のような笑顔が参加者を惑わした。

 

 

タツオは、あの1週間を思い出し、そして相棒を見つめ、渾身の一投で10本のピンを仕留めにかかった。ブルボンは、果敢に攻めていった。大きな唸り声を上げながら。「ゴォーーーー」と雪山を転がる雪玉のように、勢いを増していった。漆黒の相棒は、全身全霊で、ピンにぶち当たった。

 

11- 死闘の果てに Part-7

 

ブルボンの突撃で、10本のピンは一瞬で倒れた。しかも、7番ピンは弾かれて、レーンの真ん中まできていた。
「おぉーー」と観客が一斉に声援を上げた。ビッグウェーブとともに。スタンディングオベーションである。
これには、本牧高校のメンバーも興奮せずにはいられないはず.....しかし、タツオの目には信じられない光景は写っていた。なんと、真っ先に喜ぶはずの仲間がアイコンタクトで「調子に乗るな!」とクリスタルさんをはるかに超える眼差しで、タツオを見ていたのだ!!タツオは、正直失禁しかけた。「なんなんだ、こいつらは!?」
確かに、後2フレームをストライクしないと本牧高校はこの世紀の一戦に負けてしまう。たかだか、1フレームのストライクくらいで喜ぶなという戒めでもあった。それにしても、この目つきは尋常ではない。
タツオは、冷静に冷静にと自分に言い聞かせた。そして、ストライクという大仕事を成し遂げた相棒であるミホノブルボンをナデナデした。頬ずりした。そして、最終フレームの2フレーム目を再び仕留めにかかった。「ブルボンいけーーーーーー」。

 


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

苦労人であったブルボンの鞍上の騎手に思いを馳せながら、タツオは目から溢れ出る涙をこらえずに、腕を振り下ろした、目から溢れ出た涙は、ブルボンにも飛び散った。しかし、ブルボンはそんなこともお構いなしに、再び孤独な旅へ出かけた。
「おーーい!タツオー」と、クリオの声が聞こえた。ふとタツオが我に返ると、相棒がじーっとタツオを待っていた。次の最終フレームを。タツオは、興奮のあまり我を見失っていたようである。間髪入れずに、「ナイス!」とミネオが言ってきた。ミネオは、ハリウッド映画のミュータント・タートルズのミケランジェロにそっくりの顔をしている。その愛嬌のある顔から笑顔で、そう言ってくれた。タツオは、「この3人で優勝するぞ!」と、気合を入れ、相棒を手に取った。この相棒はいつも無口で、僕と一緒にいてくれた。そして、タツオが困ったときは、必ず助けてくれた。「もう思い残すことはない」とタツオは自分に言い聞かせ、最後の投球モーションに入った。
タツオは、第3者の誰かが上から見ているような気になった。自分の心がもうここにいないようで、無心の境地のような.......

 

タツオが放った、運命のボールは、ガターをぎりぎりに転がり、急速に1ピンの右側面に当たるように曲がっていった。

 

12- 死闘の果てに Part-8

 

ブルボンは、狙い通りに1ピンの側面に激突した。
「ヨシッ!」とタツオは小さくガッツポーズをしたが、なんと10ピンがまだ立っているではないか。しかも、ふらつきながら......。
タツオは祈った「倒れてくれー、お願いだ!」。もちろん、本牧高校の他のメンバーも手を合わせている。その気が届いたのか、10ピンはさらに揺れが大きくなった。
会場の観客も10ピンの揺れに合わせて揺れているようにも思える。もう倒れるだろうと思ったその時、10ピンの揺れが止まり、そのまま直立してしまった.......。
10ピンの直立不動と同時に、会場はまるで時間が止まったように、静かになった。この静けさは、タツオにとってはあまりにも長く感じた。

 

「負けた....」タツオは、その場で倒れた。静けさに包まれた会場からも、深いため息が聞こえたが、次の瞬間「よくやった!本牧高校すごいぞー!」という声とともに、大きな拍手が起こった。拍手の中、タツオは悔しさで、涙が止まらなかった。
そこへ、ミネオとクリオがタツオへ歩みより、「笑顔、笑顔」と言った。この時はばかりはアイコンタクトではなく、2人はしっかりと声に出して、タツオへ伝えた。
「笑顔、笑顔。笑おうぜ!」、タツオは、必死に笑顔を作ったが、泣きすぎて、どうにもならなかった。

 

そこへ、一人の大柄な男がタツオへ近づいて、タツオに声を掛けた。
「ありがとう!ナイスゲーム!」

 

タツオは肩を震わせながら、後ろを振り返った。そこには、石本国際高校のエースであるアワ タクオがいた。ゲームのときは、無表情であったが、彼の顔は笑顔で溢れていた。勝者の笑みというより、ただこのゲームが楽しかったということだけで、笑っているように思えた。それは、無邪気な子供の笑顔のようであった。

 

 

13- 死闘の果てに Part-9

タツオは、アワ タクオに笑顔返しをし、手を差し出した。アワ タクオは、その手をしっかりと握り、顔には再び笑顔に満ちていた。笑顔の両雄の握手には、会場から惜しみない拍手が送られた。
二人は、お互いの健闘を称えた。
そして、タツオは
「優勝おめでとう!全国大会連覇を祈念しているよ!」とアワ タクオに勝利のエールを送った。タツオの顔には、笑顔しかなく、そこにはもう涙はなかった。
そして、いつの間にか二人の周りを石本国囲際高校と本牧高校のメンバーが囲うように集まっていた。高校のボーリング大会では恒例の敗戦高からのエール送りが始まった。

 

「フレー、フレー、イシモト!フレー、フレー、イシモト!ゴー」

 

タツオ達は、お腹の奥底から大声を出して、笑顔で石本国際高校にエ-ルを送った。

 

「ありがとうございました。」と石本国際高校から笑顔でお礼の言葉があった。

 

会場からも、「いいぞー、石本国際高校は全国制覇しろよー」とエールが送られた。

 

そして、会場からの大歓声の中、表彰式が執り行われた。
優勝は石本国際高校、準優勝は本牧高校。両校は、笑顔で表彰式を迎えた。タツオは、日本ボーリング協会の会長より銀メダルを首に掛けられた。この銀メダルは、ずっしりと重い感じがし、これまでのタツオの苦労がこの銀メダルに込められているようであった。
その後、個人表彰へと移った。ついに最優秀選手の発表だ。本大会を通じて、個人で最も活躍した選手が選ばれる賞である。通常は優勝校から選ばれるが、たまに準優勝校からも選ばれることもある。

 

日本ボーリング協会の会長が登壇し、最優秀選手が記載されている手紙をいかにも高級そうなステンレスの鋏で、開封作業に入った。中の手紙をだし、ゆっくりと手紙を広げ、咳ばらいをした。かなり焦らしているようだ。まあ、それくらいこの賞は重みがあり、ボーリングをしている全ての高校生の憧れの賞でもある。映画界でいうところのアカデミー賞のようなものだ。

 

「本年度の最優秀選手は・・・・・・・、本牧高校のヨピ タツオ選手です。」

 

タツオは頭が真っ白になった......
「僕が.....最優秀選手!?....」

 

 

 

14- 死闘の果てに Final

日本全国を巻き込んだ神奈川県の高校ボーリング決勝戦は石本国際高校の優勝とタツオの最優秀選手賞で幕を閉じた。

 

翌日のスポーツ面のTOPは優勝した石本国際高校のメンバーの写真がデカデカと載っていた。もちろん、本牧高校のメンバーの写真も。タブロイド紙で超有名な一流紙である東東スポーツに至っては、タツオの特集を組んでいたのだ。
タツオの趣味から学校生活での評判まで........

 

全国の視聴率はなんと60%を超えており、1965年11月30日(火)の世界バンタム級タイトルマッチのファイティング原田×アラン・ラドキン戦の60.4%に少し届かないということであった。
さらに、高校生の試合でのTV中継に絞ると1978年08月20日(日)の第60回全国高校野球選手権大会・閉会式の50.8%が最高であった。それを大幅に超える数字を叩きだしたのだ。
高校野球という花形のスポーツと、あまりメジャーではないボーリングを比べてもこの数字は尋常ではない。

 

日本全国で数週間は、このフィーバーで盛り上がったのである。

 

だが、もうひとつ、タツオ達にビッグNEWSが訪れた。なんと、今年の流行語大賞に「本牧高校」が選ばれたのだ。あの伝説の死闘で、本牧高校は世界的に有名になり、聖地巡礼として高校への「お百度参り」に訪れる人など。
はたまた、中国のガイドブックに日本で絶対に訪れたいパワースポットとして取り上げられるなど、とんでもないブームとなっていた。学校周辺には、このブームにあやかろうと、出店がずらりとならび、グッズというグッズを売りまくっていた。
グッズで一番人気は、もちろん「ヨピ・タツオ」関連であった。特に、タツオの最後に一投のシーンが描かれたお守りは1個1,000円ながら、500万個以上は売れたのだ。いうまでもないが、タツオには印税とかの収入はゼロであった。
あざとく、このブームに乗っかった、商売上手な人だけが、儲かっただけであった。

 

そして、静かに、このブームは過ぎ去っていった。。。。

 

それは、タツオに降りかかる次の嵐を予言するかのようでもあった。